今を楽しむ
吉祥寺での思い出の、その続きの話。
井の頭公園の新緑に囲まれた池へ向かうと、息子が「どうしてもボートに乗りたい」と言い出した。その日は梅雨入り前の厳しい暑さ。私は正直、「日陰のあるスワンボートにしようよ」と逃げ腰だった。
しかし彼は首を振る。「友達と手漕ぎボートに乗って練習したから、お母さんに披露したい」と言うのだ。それを聞くと、親としては複雑だった。息子は泳げるが、私はカナヅチに近い。しかも池の水は深緑色に濁り、水中が見えないのが不気味で怖い。さらに、この酷暑。嫌だな、乗りたくないな。
でも、子供が目を輝かせて「やりたい」と言ったら、結局は折れてしまうのが親のさが。私は意を決して、彼と青い手漕ぎボートに乗り込んだ。
ボートが進み出すと、驚いたことに彼のオールさばきは想像以上に上手だった。友達との練習は本当だったらしい。私はといえば、彼が熱中症にならないようにと気が気でなく、狭いボートの上で身を乗り出して日傘をさすくらいしかできなかった。心配ばかりしている私を見かねて、彼は言う。
「心配とかいらないから!今を楽しんで!」
その一言に、ハッとした。私は日傘を畳んで、仕方なく「今を楽しむ」ことにした。彼が木陰までボートを進めると、そこには驚くほど涼しい風が吹いていて、見上げれば真っ青な空が広がっていた。池の端には、梅雨の訪れを告げる紫色の紫陽花も見えた。
「なんだか、本当に楽しいな」。 不安も暑さも、その瞬間、消え去っていた。
これまで、私は息子に色々な楽しいことを教えてあげたい、体験させてあげたいと思ってきた。でも、本当は逆なのかもしれない。彼に引っ張られて、私の知らない景色を見せてもらっているのは私の方だ。親になったら大変なことも数え切れないけれど、それ以上に、新しい感情をたくさん彼に教えてもらった気がする。
ボートを降りたあと、また二人で歩き出す。いつかまた、こうして二人で来る時間を作りたいと心から思った。
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